殺人テーゼ(1月5日記)

人を殺め、司法の手に自分の身を委ねる。
自分がまだ若ければその懲役刑を果たせば
本来の世界へと這い上がれる。

この世から殺人がなくならないのはそれが理由だろう。

殺める対象を本当に憎んでいたとして、
その者をこの世から葬り去りたいのであれば
己が懲役を服するリスクを負ってでもその手段を使う利がある。

遺族が口にする言葉「それでも被害者は戻ってこない」こそが
加害者が望む最高の結末なのではないだろうか。

殺したいものを殺して自分は生き残る。
それを最良とする願望は誰にでも起き得る。

許す者(8月19日記)

何某かの謝罪を受けて己がそれを受け入れる時、
相手を真に自分の中に受け入れることができるのかを
確かめる必要がある。

謝罪を受け入れる、
それは「許した」のではなく「諦めた」のではないか。
真に相手を許すことは謝罪に含まれた全ての欠点を
咀嚼し消化できる証明に繋がる。

従って相手が同じ過ちを犯した時、
己が憤怒の念を抱くことは誤りであり、
過去に「許した」欠点は「諦めた」ことになる。
己に対して虚偽の判断を下したことになる。

人を「許す」ことは言葉で表すより遥かに難しい。
だから自分は許すふりをして諦めている。

強き者、弱き者(6月18日記)

社会的立場の強弱は生まれた瞬間には既に決まっている。
強き者の元に生まれたか、弱き者の元に生まれたかである。
日本は世襲制を古くから敷き、その抜け殻を今でも被っている。

例え弱き者達の一部が強い者を倒そうと立ち上がろうとも
立ち上がる気力さえも奪われた弱き者を利用して、
強き者はその地位を永らえる。

弱き者は強き者に抗えない仕組みになっている。
そして更に弱き者は力を奪われていく。
力を奪われた弱き者のなんと愚かなことか。
屍も同然である。

富める者が富み続ける。
貧しき者の力への渇望はどこに行ってしまったか。

努力を報いない国がこの世に存在して良いのか。

ジャーナリズムの嘘(5月4日記)

ジャーナリストという商売は汚い。

彼らは情報を売ることでそれを生業としている。
情報に希少性や人の欲求が伴えば
その者が保持している情報の価値は急激に高まる。

情報の収集、公開に支障が出るということは
ひいては己の利を害されることに繋がる。
ジャーナリストを自称する者達はその利権を守るために
「表現の自由」や「知る権利」という透明な蓑で盾つく。

情報というものは本来個人に関わらなければ
その個人以外には一切の害利も生じない。
それでもなぜか他の者すら情報を欲する。

そこにつけ込んで暴利や功名を得ようとするのが
情報商人の本性だ。

生命の質量(4月9日記)

イラクで邦人3人が捕らえられた報道を見た。
自衛隊を3日以内に撤退させなければ3人を殺害すると言う。
日本の首脳たちは毅然とした態度で撤退を否定し、
来るべき日に臨んでいるかのように見える。

しかしそれは違う。
真に人道的な対応とは猶予期限である3日を
最大限生かすことではないのか。
3日の猶予があるのなら、自衛隊を撤退させずとも
3人を救出可能な方法を最後まで模索することではないのか。
事件発覚当日に発表された撤退否定の会見、
捕虜となった邦人を恰も対岸の火事の如く扱っている。
仮に捕虜となった者たちが日本国の要人であったなら
政府首脳の対応は明らかに違っていたはずだ。

日本は久しく戦地となっていない。
所詮、庶民の命は地球ほど重くない。

遺伝子命令(2月5日記)

過去に「パソコンが普及したら紙がいらなくなる」という言葉があった。

だが蓋を開ければパソコンの付属のマニュアルに始まり、
参考書、関連雑誌、ひいては年賀状まで紙を浪費し続けている。
結果、森林破壊は進む一方で二酸化炭素も増加の一途。

人間の寿命はせいぜい70年、その癖傲慢で
自分が生きている間が快適であればいいと思っているから
自然に関しては次の世代には何も残さない。
むしろ食えるだけ食い尽くしてやろうとする勢いだ。

つまり人間は正直に遺伝子の指令に従い
種の繁栄の為に他の遺伝子を駆逐しているのだろう。

戦闘の定義(1月15日記)

自衛隊が戦後初めて海外へ派遣される。
派遣という言葉を使う以上、既に「自衛隊」ではない。
「日本兵」である。

派遣されるある隊員の妻は
「海外派遣は仕方が無いが夫が人を殺すことが悲しい」
と語ったという。

これこそ平和ボケの最たる例ではないか。
日本の軍隊は戦争に参加する。言葉尻は問題でない。
己の命を守るために敵を殺める、それが戦争だ。

やはりもう一度、日本を戦場とする必要がある。

命の商人(12月21日記)

ペットショップに入るのが怖い。
ガラスケースに「陳列」された子供達を見るのが
あまりにも不憫だからである。

半ば人間のエゴでこの世に生を受け
母親の温もりさえ奪われ、命あるものにも関わらず
「商品」として扱われ、売れ残れば人知れず薬殺される。
この手の商売人は冷酷非情でないと勤まらない。

私の家にいる犬と同じ頃に生まれた子犬が
ある店で売れ残った。
しばらく店内で飼われていたが
その眼差しは人の視線を恐れ、足は痩せ細っていた。
成長の段階で重要な運動が檻の中にいたことで
全く出来なかったのだろう。
頭を撫でていて涙が出そうになった。

程なくしてその子は姿を消した。
買われたのか、殺されたのか。
聞く勇気は起きなかった。

論客(9月21日記)

誰かと意見が対立したときに
相手を論破しようと躍起になる姿が醜く思える。
別段、自分の持論が通らずとも困らない事象に対しても
何故か論破されることを敗北と受け止め、避けようとする。
誇り、などという単語で覆い隠そうとするならそれは単なる盾。

斯様な議論を交わす様を見ていると憐れで仕方がない。
自分には生きる上でさして必要でないことにまで
不思議と必死の形相で言葉を並べ立てる。

議論は嫌いではない。ただ「負ける」ことも嫌いではない。
その時、相手が「勝つ」ことを望んでいると悟れば
こちらが剣を鞘に収めることはすぐにでも出来る。
そういう論客ほど面倒なのだから時間を費やすだけ無駄である。

評価の迷路(9月3日記)

学生だった頃はテストの結果などで
通知表という形となり自分がどの程度の能力を
持っているかがある程度は判断できた。

社会へ出て8年になるが
通知表のような明確な自己の評価材料が
存在しないことに恐怖心を持ち続けている。
仮に給料が上がったとしても
「それは何故か」「自分の働きぶりに対して妥当か」「他人はどうか」・・・
靄のような数多の疑問と不公平感が頭から離れない。

だから「君は良く働いている」という言葉も重みに欠ける。
口で言うなら誰でも出来る。
問題なのはその靄の中を何の灯火もなく
歩かなくてはならないことだ。

死に行く者(8月10日記)

祖父の余命が幾許もない。
自分の末期を悟っているのか
病床に臥した祖父は半ば諦めの表情で空を見ては
時折強がって冗談を繰り出そうとする。

振り返れば祖父は沢山の喜びや楽しみを教えてくれた。
ほんの僅かでももっと多くの楽しみを教えてもらいたい。
だが、生ける者は死する。
分かっていながら自分は無理な我儘を口にする。

「俺が死んだら化けてお前の枕元へ行ってやる」

彼がまだ若く自分が小学生だった頃に
言われた言葉を思い出す。化けて出たなら花札をしよう。

死に行く者は必ず消える。しかし数人の中では残り続ける。

真実を示す言葉(7月17日記)

数年前、とあるスポーツ選手がこんな言葉を吐いた。
「このレースであの人が勝たないと
次のレースで戦わなきゃいけないから頑張って欲しい」
その台詞を吐いた本人はその日のレースを欠場していた。

その何気ない一言でその人間の本性を見取った。
たとえ仲が良い間柄とはいえ、
これほど礼節を欠いた応援の言葉がよく吐けるものだと、
怒りすら感じた。

その言葉の意味はこうだ。
「一緒に大きな大会に出たい、だから今はその者と戦いたくない」
「もし戦うと自分が勝ってしまうから一緒に次の大会に出られない」
本人は含まれたその失礼さに気づいていない。

それまで私も一目置いていた選手であったが
その自惚れ、甘さ、傲慢ぶりに嫌気が差した。
どんなに素晴らしい成績の持ち主でも自分はその選手を尊敬しない。

私は何気なく出る言葉の裏側にこそ真実が隠されていると信じている。
他人との会話には常に耳を研ぎ澄ませ、その裏を覗く。

情けは人の為ならず(6月12日記)

高校時代、進学クラスにいた。
周囲の生徒は目の色を変えて図書委員、風紀委員の席を争った。
内申書の評価に影響するからだというのである。
湧き上がった感情は辟易以外の何者でもなかった。

しかし、今思うとそれは当然なのかもしれないとも言える。
人は無償で誰が為に事を起こさないではないか。
必ずや何らかの見返りを密かに期待している。
それが脳内に根付いている本能なのだ。

ひいては他人からかけられる情けには必ず裏があると考える。
見返りという名の報酬を暗に求めている。
それを自分が充足させるか否かを決めて
その情けを甘んじて受けるべきだと決めている。

他人の人生観(5月28日記)

本屋に立ち寄ると人生の参考書とも言える本が
山のように積まれているのを見かける。
そんな本のどこに魅力があるのか。

時折電車の中などでその類の本を読み耽る人を見る。
金を払ってまで他人の人生をなぞろうとしている事を
露呈しているように見える。
それらの本に実際に何が記述されているのかは知らないが、
車内の周囲を見渡せばその本以上の価値がある風景が
広がっているにも関わらずである。

その時間を捨ててまで特定の人物の人生観を取り入れたいなら
それは個人の自由だが、生き方の手本など金を払わなくても山ほどある。

自分はそういった本に一切の金と時間を払うつもりはない。

淘汰(12月5日記)

自分達はこの一瞬一秒において必ず
世間から淘汰されようとしていることに
気が付いているだろうか。

人間社会において常に最も弱い者から
抹殺され続けている。
自分が今、存在できるのは自分より弱い者が
「まだ」いるからである。

金の無い者は病院に通うこともままならず
苦しみつづけて死んでいく。
力の無い者は力のある者に抗う術を持てずに
圧力を跳ね返せないまま死んでいく。
運の無い者は他人の不幸までも抱え込んで
不条理を感じながら死んでいく。

迫り来る「その時」は本人さえ予測が付かない。
自分はその緊張の中で毎日を過ごしている事が脳裏から離れない。

許容される矛盾(11月19日記)

議論において意見の矛盾を指摘され逆上する場面、
社会で時折目にする滑稽な瞬間だ。

矛盾を起こしてはならないと誰が決めたのか。
言葉がある以上、言葉で意思を伝える以上、
その言葉の解釈には少なからず個人差が存在し、
自己の中では完結していたはずの哲学も
言葉を通すことによって相手への伝わり方も大きく変わる。

更に言うなら、その哲学ですら矛盾が生じても良い。
日々の出来事がその者に多少の変化をもたらした時
これまで培った経験則が崩れる場合がある。
理性と本能の乖離も当然発生する。

しかし、それで良いのだ。
矛盾が多いほど多くの意見を持ち合わせた人間だと
自分は判断している。

生命科学(11月6日記)

「人の命は地球より重い」という言葉を聞く。
間違いである。
生命に質量など存在しない。
だが、今はそれが問題なのではない。

この世に生み出された人間という名の寄生虫は
自分達がその地に生かされているとも知らずに地球を蝕み、
自らの種の保存を成すが為に他の生命を無意味に奪う。
実に正しいことである。

肉体は遺伝子の命令通りに事を進める。
細胞は遺伝子が己の強靭さを誇示するための乗り物でしかない。
遺伝子は己の歴史を刻むためだけに動く。
生命はその行為に与えられた猶予でしかない。

性悪説(10月3日記)

あるデパートが肉の生産地を偽って販売していた。
その対処として販売金額を返却する処置を取った。
ある消費者は買ってもいない肉を「買った」と偽り、
金を騙し取った。

消費者の心理を強かに操り商品を売った企業と
企業側の良心につけ込んだ消費者のあざとさが
浮き彫りになった一幕だ。

しかし、それで良いのだ。
これが人間本来の姿だ。それこそが人間の汚さだ。

隙を見せればそこに入り込んでくる悪はいくらでもある。
それを防ぐ手立ては一つ。
常に険しい眼差しで心の目をぎらつかせ社会に臨む。
その眼光に相手は怯むことだろう。

今まで生きてきた年月の中で体得した「人」の法則の一つを
覚えておくと良い。
「人間は欲でしか手足を動かすことが出来ない」

知識(10月1日記)

知らない事は恥ずべきことではない。
しかし、知る事は物品では代え難い価値を持っている。

例えて言うなら、あるパソコンソフトの参考書を購入したとする。
しかしそれはそのソフトの動作を「知らない」から買うのだ。
ただしそのソフトの動作をどこかで身に付けていれば
参考書を購入せずに済む。
ある言葉の意味を知らなかったとする。
それを辞書で調べて意味を理解する。
しかしその言葉の意味を知っていれば辞書を引く手間の分、
時間を浪費せずに済む。

知識はあらゆる面での経済力である。
形ある全ての事象には必ず理由があり価値がある。

それをいつ見出せるか、知らないことにいつ気づけるか、
人は知識に対してもっと貪欲になるべきである。

性格(9月19日記)

「あの人の性格が嫌い」
この僅かな言霊に秘められた大きな意味を
口に出した本人は知る由も無いのだろう。
その一文が脳を駆け巡る経緯は至極簡単で
自分は相手の気に食わないところを具体的に言い表せないか、
もしくは言い表すことで自分に不利益が生じる事が原因である。
つまりは逃避であり、その壁から隠れて行う卑怯な攻撃手段だ。
加えて、「性格」の特定的内容を突き詰めた時、おそらくそれは
己の中にも潜んでいる闇でもあるだろう。

本来、「性格」とはその人となりの全てを表す用語であり
そこを用いて「嫌い」と表することは大きな危険を孕んでいる。
彼自身、延いては彼の存在自体を否定することに他ならず
それほどの権限を持った人間はこの世に存在しない。

「性格」は人の数だけ存在して当然だ。

反面教師(8月27日記)

ふと書店に立ち寄る。
レジの目の前には著名人が著した人生の教本らしきものが
平積みでそれも無尽蔵に、多種多様に置かれていた。

これらの本を読む人間の気が知れない。
他人の人生をなぞり、それを糧に成功する、
果たしてそれは喜ばしいことなのか。
さらにその本通りに事が運ぶことなど一切ない、というのに。

電車の車内でもそれらしき本を無心で読み耽る男、女を見かけるが、
それは「私は自分の人生を見つけられないので他人の真似をします」
と無能と怠惰を白日の元に晒しているだけだ。

車内の風景でさえも人生の参考書となる光景は山ほどある。
それを見逃して他人の手を借りるというのは
その本に払った金と時間の浪費であり、
確実に己を高めるチャンスを逸している。

どこかでそんな彼らを見かけた時、彼らそのものを
無料の反面教師としてしかと観察することにしている。

光と影の経済(8月7日記)

物に光が当たれば必ず影が出来る。
これは経済においても不変の原理である。
利益を得た者が現れた時、裏では同じだけ損をした者がいる。
この簡単な足し算を今の日本は忘れてはいまいか。

「不景気だから」と言う言葉が常套句になっている。
これは単なる逃避であり、この言葉を吐く人間のうちの数%は
自分の「得」を隠すための蓑に使っているのではないか。
日本では沢山の人が金銭的な苦しさを覚えているが
その影は誰かが必ず作り出したものなのだ。
よって「世界中の資産と負債を合計すると必ず差し引きゼロになる」
という図式が成り立つ。

もう一度言う。
利益を得た者が現れた時、裏では同じだけ損をした者がいる。
この言葉を決して忘れるな。金が織り成すしがらみはここから生じる。
自分が利益を得た時には必ず誰かが泣いている。
泣かせた分だけ自分が得をする。
それで構わないというのなら金を稼ぐが良い。

不変の運命(7月27日記)

「運命が変わった瞬間」という言葉を口走る者がいる。
かなりの勘違いをしているように感じる。
『運命』とは、そのもの一切は変わらないのであって、
単に自分が予想していた事態より思わぬ好転を見せたために
「運命が変わった」と感じ取っているだけなのではないか。

和泉が思うに、絶対に運命は変わらない。
一人の人間に敷かれたレールは1本だけである。

「運命を変える」ためにさぞ相当な努力をしただろう。
さぞ必死で祈っただろう。さぞ汗水を流しただろう。
しかしそれはすべてレールの上での出来事であり
その結果がどうなるかは次の停車駅で既に決まっている。

「なるようにしかならない」
人生を諦めて生きる自分なりの心構えをここに記す。

焦燥(7月9日記)

知り合い達が30歳を目前として
次々と夢を現実のものへと変えつつある姿を聞かされた。

以前から持ち続けていた焦燥感の芽が
大きく伸び上がってくるのを感じる。

自分は夢をこれとなく持たずこれまで生きてきた。
今更羨望の眼差しで見るのは虫が好すぎると言えよう。
が、それを肌で感じる出来事が起きたとき
己の此れ迄の行状に悔恨の念がこみ上げてくる。

「今の自分でいいのか」
「何かやりたいことがあったはずじゃないか」
「お前はなにをしているんだ」

心中に疼く癌が情けないほどの細い声で叫ぶ。
生きていく自信はまだ、無い。

逃避の言語(5月27日記)

「性格」と言う言葉が嫌いである。

『自分はそういう性格だから』『彼とは性格が合わない』などと
時折耳にするが、深く考えると意味が不明になってくる。
「性格」とはその人の人格全体を指す言葉であり、
軽々しく用いることは大きな危険を含むことになる。
それを考えずただ単に「相手に理解されないから」、
「相手が嫌いだから」と直接的な表現を避けてとおりたいがために
遠回しな表現で逃げているように思える。

加えて後者では『問題なのは相手の人格であり、自分に非は無い』と
自己弁護の意味合いをも帯びているように聞こえる。

「性格」を多用する人間は感覚的に生きる。
その時々の感覚を言葉にすることが出来ないので「性格」という
範疇の広い熟語で語彙力の無さをひた隠しにしている。

会話、特に初対面の時に和泉は相手にどれだけ言葉の能力があるかを
推し量り、今後の接触の足懸かりとしている。

常套句(5月21日記)

「忙しい」という言葉は利便性に富んでいる。

個人の活動には1日は24時間だけという制約が存在し、
その範囲で各人ごとに内在する事象に対して
自己の優先順位に基づいて決定される。
その過程で24時間の範疇を越えた事象が存在するときに
人は「忙しい」という言葉を本来なら発するべきである。

ところがその「忙しい」という言葉の先天的に刷り込まれている
本来の意味を悪用する人間の方が遥かに多いだろうと和泉は考えている。
「忙しい」と発せばある厄介な作業を行わずに済む、
今はその事象に携わりたくない、という
逃げの方策として「忙しい」という言葉を口にしたことはないか。

人から「忙しい」という言葉を耳にしたときは
疑ってかかるほうが無難である。

壊れた議論(4月6日記)

「種々の議論に抽象的な言葉を用いることで
誤解を生むのは定石である」

よく聞く言葉。しかしその慣用句には矛盾を含む。
『抽象的』と表した言葉そのものが抽象的なのだ。

時折見かける掲示板の荒れかかった無意味とも取れる議論は、
必ず「言葉」の見解の食い違いを発端として議論の本質から外れ、終わる。
そういった事象を幾度となく見ている。
くだらないので掲示板での議論には一切参加しない。
流れが、内容が、そしてなれの果てが見えている。

意見の食い違いは歓迎するべきである。
新しい知識を自分の体内に消化する機会である。
そこから生まれた自分なりの結論は誰にも理解される必要は無い。
己の脳に刻み込むだけで良いのだ。
それを他人に理解させようとするから、時間を浪費する。
その時間はもっと別に使うことが出来るはずだ。

自分の癇に障る意見なら咀嚼して吐き捨て、放置すればよい。

怒り(3月23日記)

他人に怒りを覚えた後、余程のことがない限り
相手を許すという行為へと移行する。
しかし、それは相手を本当に「許した」のかを
己の心中で咀嚼する必要がある。
単に怒りの感情の波形が時を追うごとに平坦になり
怒ることを諦めただけなのではないか。

国を相手取った裁判事件が和解に向かう事例などがそれを象徴する。
「時」は心を癒す力を持つ。が、それと同時に心を萎えさせる力も
持ち合わせていることを忘れないようにしている。

自分はいつも何かを批判している。そこから生じる感情を
今、この瞬間を生き抜くための糧と、希望としている。

「怒り」は絶対値として大きな力だ。

責任(2月27日記)

「お笑いHPを立ち上げました」と宣伝している人を見かける。
見かけた宣伝からは出来るだけサイトを見に行くように心がけている。
そして「このサイトはどれだけ長続きするだろうか」と心配もする。

彼らの大半は開設直前までどこかしらのサイトに投稿という形で参加し、
この世界から感じ取る憧憬を糧に新規開設に至るというパターンを経ている。
その中の一握りのサイトは「予想以上の更新に奪われる時間」と
「代償に見合わない閲覧者の反応」「モチベーションの低下」など、
様々な障壁に衝突し、それらを打ち破れずにこの世界から離れていく。
サイト閉鎖・休止の何らかの通知があるならまだ良質な方で、
何のメッセージも残さず放置状態などは最低だ。

人から預かった投稿という名のセンスの結晶を正しく、かつ定常的に
管理しなくてはならないという重い責任の存在を自覚している管理者が
果たしてどれだけいるのか。
将来、サイトの開設を考えている管理者予備軍はこの「責任」を
背負い込む覚悟を決めて開設に臨むべきだ。
今現在のサイト管理者は、この「責任」が果たせているかを
今一度見つめ直すべきだ。

自分は過去に一度だけ、その責任を果たせなかったことがある。
非常に悔やんでいる。同時に、その罪滅ぼしが
今の定常的な更新状況を実現させる一端となっている。

ネットの中にも社会や秩序は存在している。
しかし、そこで発生する責任は現実世界ではほとんど影響がない。

悲しくもそれを悪用する人間がいることは確かだ。

矛盾の経済(2月16日記)

とある企業が経営不振に陥り銀行側が
借入金の一部を事実上棒引きするという報道を見た。
その額およそ7500億円だという。
1つの大企業を守ることでその企業と繋がりがある会社をも
守ることになるという論理は理解できる。
しかし、7500億円でなければならない理由は
報道の中には一切触れられていなかった。

仮に棒引きする金額を7400億円としたときに
その影響はどれほどあるのか。
その100億円を不況に喘ぐ中小零細企業の救済に
充てることが何故出来ないのか。
公定歩合を大きく上回る金利で貸付を行い
その一方では雀の涙とも言い難い預金利息、行員の給与水準の高さ。
種々の矛盾を孕んだまま銀行はのうのうと生き延びる。
多額の退職金を受取り、逃げるが如く企業から去る者もいる。
この矛盾は取り除かれることはないのか。

私の父は命を売った。
その悲しみは矛盾への怒りに姿を変えた。

善悪(2月3日記)

善と悪という概念は人間にしかあり得ない。
だから当然、善と悪はそれを生み出した人間が
管理しなくてはならない。

ところが無限に存在する事象それぞれに
善と悪の区別をつけられるのは
完全に善と悪を知り尽くした人間以外
その権利を持つべきではない。
だがそんな人間は存在しない。
それを無意識に知っていて
善と悪を区別するこの人間たちは
善と悪を完全に区別できる人間より
非常に秀でたものではあるまいか。

ただ、それが素晴らしいことであるかは別だ。

存在する恐怖(1月20日記)

「自分がこの世に存在しているのは何故か?」

この命題に対する解答を探っている過程で自分に
「自分がこの世界に存在しなければならない理由は何か?」
という問いかけを突きつけたことがある。
あまりに恐ろしくてその答えはまだ求めずにいる。
というよりその問いに答えてしまうと
自分が完全に破壊されてしまいそうだからだ。

周囲の人間は自己の精神に果たしてどれだけその命題の解答に
重きを置いて生命を維持しているのかを知りたくなる。
「自分がこの世に生を受けさえしなければ」と嘆いたこともある。
存在しているだけなら草でも出来る。
しかし、存在していくためにはそれだけに足る理由を求めたい。
自分が今、不自然な存在であっても、である。

老害(11月27日記)

医療技術の進歩により人間の寿命はおよそ70年にまで伸びた。
なかなか人が死ななくなったのである。
これは困る。

老い先短い政治家は次の世代に何か残そうとしているだろうか。
否。ただ親類縁者へ遺産を残すためだけに奔走している。
「自分はこの先何年も生きられない。ならば自分の為だけに余生を過ごそう」
そう考える輩達に200年先のことを考えて国を作れと言う方が間違っている。
年寄りは死期が近づくほど周囲に目を配らなくなる。
自分も多分に漏れず似たような老人になる。その前に死んでしまいたい。

寿命がわずか10年であったなら、自分の存在を必死で形作ろうとするだろう。
寿命がはるか500年であったなら、自分の存在できる期間の長さだけ
快適な空間を作り出すことだろう。

70年の寿命、この中途半端さは如何ともしがたい。

権威の脅威(10月25日記)

ある学者が発見したとされるほとんどのものが
偽物だったという報道に権威の恐ろしさを垣間見た。

その学者が口にした言葉の数々は
彼に対する強力な信仰心によって疑う余地は失われ、
真偽の裁きも受けずにむき出しのまま波紋のように広がる。
「彼に異を唱えれば学会から抹殺されるのではないか」
己の地位の保身から来る、彼を核とした恐怖政治の確立。

生み出された仮説はまず権威の有無によって信用の高さが決まる。
後はどれだけ相手を説得するに足る材料を
「持っているように見せられるか」の駆け引きだ。
学説の信憑性は所詮、そんな低い程度のことでしか成り立っていないのだ。

ならばその駆け引きすら必要ないほどの権威を持てば良い。
彼はそう考えたに違いない。
だが、そんな事件が起きた後でも彼らはこの慣習を改めないだろう。

その学説が仮に間違いでも彼らの身体に傷などつかない。
ではなぜ間違いを恐れるのか?
彼らが最も恐れるのは間違い自体ではなく、
間違いを起こすことによって己の権威の失墜が発生するからだ。

やさしさ(10月24日記)

好みの異性の特長を聞かれて「やさしい人」と答える人間を信用しない。
仮に相手が誰彼なく優しかったら、果たしてどうか。
相手との生活に耐えて行けるだろうか。恐らく無理だ。
他人に対して極端にやさしく見せれば嫉妬の種になるだけである。

その人間の唱える「やさしさ」は単なる「甘やかし」でしかない。
自分を甘やかせてくれる人間をパートナーとして望んでいるだけだ。
裏を返せば、自分だけを甘やかせてくれない人間は
パートナーとしての資格がないと言い放っている。
そんな人間に魅力を見いだせと言う方が無理なのである。

その「やさしさ」も即物的なものへと欲にまみれた社会の中で変貌しつつある。
ことあるごとに企業の手で生み出された記念日には必ず「もの」がつきまとう。
無言でやさしさを表現する術も理解する能力も
重ねられた世代の中で消え失せたように思える。
輝かしく、希望にも満ちているはずの「やさしさ」も
単なる駆け引きの道具でしかない。

欲望を満たすだけの。

世渡り(10月18日記)

日本に生きる上で最も重要なのはコネクション、俗に言う「コネ」だ。
簡単に言えば権力に足懸かりを打ち込んでおくことである。
これさえあれば大抵の事は無理が利く。

就職活動で言えば履歴書の内容などまず無視される。
「部長の息子だから」「同じ大学の後輩だから」
これほどの下世話な採用理由があるだろか。
当然表向きは全ての関門をパスした上での入社に見せるが、
それらは単なる儀式に過ぎない。
例え有能な人材であったとしても
彼らが組織に組み込まれることで余計な軋轢を生む。
ただし人事担当者は他の部署の内情など知ったことではない。

犯罪を犯しても「国会議員と知り合いだから」「社会的制裁を受けたから」
とすれば無罪放免すら勝ち取れる。
時には金儲けの種にすらなる。
何のコネも持たない一般の庶民たちは簡単に裁かれて
「前科者」の十字架を背負いながらその後の日常を過ごす。

権力を手にするよりも権力にすがる方がたやすい。
そのことだけに傾倒して生きれば、きっと報われる。

市場原理(9月27日記)

近頃、ひと昔の漫画・アニメを題材とした商品・ソフトが売れている。
少年の頃、熱を上げて見入った心の残り火という名の
ノスタルジーに惹かれているのだ。

そう言うとひどく聞こえがいいが、実際は違う。
これだけその類の商品が横行しているのはもっと別の理由がある。
「こいつらならこの程度のノスタルジーにさえ金を払う」
企業はその商品を求める世代を食い物にしているだけ。
需要に対する供給とは言い切れないほどの過剰さ。
それが論拠だ。

体は大きくなり、ある程度の社会性も身についたが
どこか子供らしさが抜けきれていない世代、
その弱点を針に糸を通すかのように狙いすます。

それまで企業は「マニア」と呼ばれるカテゴリを開拓し栄えてきた。
だが「マニア」もコア化が進み商品価値が低くなっている。
そんな折、広く浅く消費者を取り込むには彼らは最適の存在だったのだ。

悔しくはないのか。

裏切り(9月15日記)

人に裏切られたとき、自分自身を責めるようにしている。
「なぜ信じてしまったのか」と。

「裏切り」という行為は「信用」が存在することで発生する。
「信用」とはひどく傲慢で、物事に対して勝手な憶測を生む。
その憶測はほとんどが自分の都合の良い方向に向かっている。
だから憶測どおりに事が運ばないときに「裏切られた」と感じる。

「裏切り」に対する防御方法のひとつ、
「信用」しないこと。
それでも「信用」したいのであれば
常に相手が裏切ることを想定しておけば
ダメージは最小限までに軽減される。

ある日を境にそう生きようと決めている。

(9月7日記)

基本的には金さえあれば大概のことは片がつく。
裏を返せば金が無ければ大概のことができない。

例えばある人が重い病気にかかったとする。
金さえあれば快適な入院生活が送れ、回復が早い。
金が無ければ適切な医療さえ受けられずにそのまま死を迎える。
金の有る無しでこの世に存在する権利すら左右される。

例えばある人が重い犯罪を犯したとする。
金さえあれば保釈される。
金が無ければ時間を浪費する。
時間は金で買えるのだ。

「金で愛は買えない」という言葉も妄想だ。
自分の持っている金を目当てに
どれだけの人間が群がっていることか。
金は簡単に人間を惹きつける。
それを「自分のためにここまでしてくれて」と
誤解して生きれば幸せな人生が送れるだろう。

世の中、金だ。世の中、金だ。
さすがに虚しくなる。

敬意(8月23日記)

「おあいそ、頼む!」という客がいる。
それを聞いたら鼻で笑ってやっていい。
元来「おあいそ」とは
「客を愛想よく送り出せ」という意味の店側の符丁だ。
「おあいそ」を頼む客がどこにいる。
言葉の真意を理解せずに外郭にある
符丁を知っていることの優越感だけで
その言葉を使用している証拠だ。
接客のプロフェッショナルに対する敬意が足りないのだ。

和泉は極力「ボケ」「ツッコミ」「ネタ」という
言葉を用いないようにすることで、
人を笑わせて金を取っている者に対する敬意としている。
代用するに適した単語が見つからないときにだけ
これらの言葉を用いることにしている。

「笑い」が半ばファッション化した今では
それらの言葉も平然と一般に使われるようになった。
その時代を批判する気はないが
プロフェッショナルに対する敬意だけは忘れるべきではない。

負の理力(8月10日記)

投稿、という行為に身をおいて10年以上経つ。
きっかけは失恋。
悔しかった。相手を後悔させてやろうと思った。
決して美談などではなく策略に近い念を抱いていた。

「憎悪」「悲観」「羨望」「憤怒」。
これらの負の力によって和泉は生きてきた。
自分と突き動かすのは必ずこれらの事象であり、
負の位置から這い上がる力もまた負の事象で得ている。

だから自分に逆の力が働いたとき、
そこから逃げ出したくなる。
誉められるより陰口を叩かれていた方が楽だ。
自分はその程度の人間でしかない、と思える。

自分の名前をある限られたコロニーの中でとはいえ
売れたのを知らせたとき、彼女がどう思ったかは知らない。

恋愛中毒(7月28日記)

恋は面倒だ。
恋愛の相談事を持ちかけられるのも嫌いだ。
大概、本人の力で解消できることがほとんどだからだ。
それほど悩むならその恋を諦めた方が早い。
その相手が恋愛対象でなくてはならない理由を探すべきだ。
現在の相手よりもっと素晴らしい恋愛対象は必ずいる。
悩むより新しい相手の探求に専念したほうが
時間のロスが少なくて済む。

10歳程度のガキまでが「カレシ・カノジョ」と叫ぶ今、
恋愛に美しさは既に無く
単なる経験則の一部に取り込まれた。

中毒患者のように誤った恋の幻想に浮かされる日々。
さまよい歩くような彼らの欲望の視線は
何をきっかけに醒め始めるのか。

脅迫(7月18日記)

物を売るときに最も必要なのは「恐怖」をちらつかせることだ。
現在の潮流として「みんな持っている」「そうでないと周囲の目が気になる」
といった強迫観念をさりげないながらも前面に押し出した手法をとる広告様式が盛んだ。
テレビCMをじっくり眺めてみれば、その隠された卑怯な手法を
掴み取ることができる。

「今、流行の」というフレーズを用いても
誰かがどこかでリサーチを行った結果だという保証が無い。
雑誌記事、テレビ番組を鵜呑みにするだけの人間たちのなんと多いことか。
吐き気を催すほどの迎合主義。

「みんながやってるから」「同じでないと恥ずかしいから」
周囲と同じでない部分をとやかく言うのなら
そんな奴らの話などは聞く耳を持つ気などさらさらない。

偶像テレビ(7月8日記)

テレビに毒され過ぎだ。
今のテレビは土足で現実に入り込んでくる。
番組のロケでは平気で交通を妨げる、マナーを破壊する。
「テレビだったら仕方ない」という風潮が広がっている。

他人を批評したいか。
被害者の遺族が涙する姿をそんなに見たいか。
周囲と会話を合わせたいか。
虚構に入り込みたいか。
「テレビに出た」と自慢したいか

必要な情報だけ取り込めばいい。
知ることを必然とした情報なんて無い。
テレビの存在はもっと低くあるべき。

サイトを閉じる日(7月7日記)

その日は来る。必ず来る。
その日は現在、確実に近い位置にある。
自分で始めたホームページ、もう5年。
自分で楽しめなくなったらすぐにでも終わる用意があると自分に言い聞かせてきた。
昨日、サイトを続けるか自分と向き合うことにした。

答えは近く出る。
この世界を離れることになるのか。ここにとどまり続けるのか。
丸5年の形が消えて無くなる。
その寂しさとあるどす黒い塊が激しい戦いを始めた。

その一方で一つの決意は固まった。
星降る夜に。

正直者(7月1日記)

タバコを吸いたい人がいるとする。
ただ、地下鉄のホームだから禁煙だ。
それに従うのが当然の正直者。
しかしそのときがたいの良いチンピラ風の男が
横で地べたに座ってタバコを吸っているのを見たとする。
きっと歯がゆい思いをする。
世間では「席を空けて下さい」と言っただけで命を奪われるのだ
そんな出来事が鎖になる。駅員は見て見ぬ振り。

和泉は至極気がおかしいほどに真面目だと自分でも思う。
タバコも吸わない。
それでも気が弱い故、そのチンピラには注意出来ないだろう。
割りを喰うのはいつも正直者。
心の凹凸はそんなところで帳尻を合わせたくない。
わかっていながら声に出せないのが正直者。

そして今日も彼らは馬鹿を見る。

不遇の子供達(6月26日記)

今の子供達がおかしい。
平気で嘘をつく、人を欺く、怒る。そして甘やかされきっている。
和泉が12,3歳の頃と言えば厳しさに溢れていた。
今の同じ年代は大きく様変わりしているように見える。
心がない、とでも表そうか。

生き物の12年というのは絶対に公平である。
その12年を何に使ったかによって12年後の人間が出来上がる。
今の子供達は要領の良さを得るだけにその時間を費やしているかのようだ。
親も弱気でそれを修正しようとしない。まさか見つけられないわけではあるまい。
しかし、その「逃げ」を感じて育った彼らは必ず増長する。
そのまま人をなめきった世代が社会に入り込む時代がやってきた。
そいつらがまたいずれ親になるのだ。

この悪循環を断ち切る世代はいつ現れるのか。

自殺肯定論(6月18日記)

自殺した人の葬儀の参列者が遺体に向かって
「何で死んじゃったんだよ!」と言うセリフを吐くときがある。
自殺した人を侮辱している。
本人は死にたかったから死んだんだ。
和泉も「もう、死んでしまいたい」と考えたことは幾度もある。

生きていることが死ぬより辛いこともある。
その状況から抜け出すために自殺という手段を選んだんだ。
それを「何で死んだんだ」とは理解がなさ過ぎる。

生きるのが嫌なら死ねばいい。
残る周りの人間など考えなくていい。
自殺は一生に一度しか使えない処世術だ。

封印(6月16日記)

最近お笑いサイトの結果発表の上位に入る答えの傾向として
あまりにもスポーツの答えが多い。
過去において和泉はスポーツ系を得意として
この世界をわたってきた。まともに言葉で渡り合っていた中で
スポーツという概念を持ち込むことで笑いを狙ってきた。
今はそのスポーツを当てはめるだけの作業に
自分の中でレベルが落ている。

それに、今を見渡すとこの種の答えは既に飽和状態のようだ。
確かに上位は伺えるかもしれない。ただ、今のこの状態では
自分独自の考えではなく、他の投稿者達も考え得る「パターン」になりつつある。

人と同じで何が芸人だ。

ほとぼりが冷めるまでスポーツ系の答えは封印する。
あるサイトの結果を見たときにそう決意した。
辛い戦いになるかもしれないが、仕方がない。

戦争必要論(6月14日記)

日本の敗戦が確定してから50年以上経った。
敗戦直後は皆生きるのに必死で歩いていたことだろう。
自分はその世界を目の当たりにしたことはないが
実際直面すると至極辛い世界だろうが、
己の力だけで生き抜くそれには憧れすらある。

今は生きていて当たり前、あまりに豊かすぎる。
「生きる」という砂の台座のうえに置かれている事をあまりに忘れすぎている。

今ここで戦争が起きたとき、日本の国民達はどうなるだろうか、と考える。
どうせ、自分たち同士で略奪の限りを尽くして自滅する、と思う。
「みんなで生きよう」としたように見えるあの時代は二度と訪れないだろうか。
必ず死と隣り合わせだ、本当はいつ死んでもおかしくない。
それを思い知らせるだけでも戦争には大きな価値がある。

精神鑑定(6月12日記)

何処でも書いてることだろうが良い機会なので忘れないうちに書き残す。
小学生8人を刺し殺した犯人は自分を精神鑑定で救うつもりらしい。
「死刑にして欲しい」とまで言い切った彼が。

仮に自分が遺族の一人で犯人に責任能力があるとして
「死刑にして欲しかった」と言うだけの動機で我が子の命を奪われたとき
自分は「犯人を死刑にして欲しい」と言うだろうか。
犯人の望みを叶えてしまうのだ。それでも「殺したい」と思うだろうか。
実際殺して自分は逮捕、当の相手は精神鑑定で無罪放免。

責任能力がないから責任を問わないと言う姿勢は絶対に間違いだ。

そして長い間考えていたことをここに。
どうして精神鑑定にかかるような人間は悪いことしかしないのだろうか?
どうして狂って人を助けたりしないんだろうか?
傷だらけで目も虚ろに善行を為して、
精神病院に運ばれる奴が居ないんだろうか?
人間の本能は「悪」から来ているに違いないと常に考えている。

決意表明(6月10日記)

ここをご覧になる皆様、残念でした。
ここのコンテンツは和泉野由が生きた証を残すだけのものです。
副題を除く文字の拡大、色変換、スクロール効果(?)、
その他一切のページ内装飾は行いません。

自分がただ、いろいろ考えたことだけを自分の思い出として
保存しておこうというだけで開始しました。
モニターに向かわない間中、いつも何かを考えている自分、
その時自分は何を考えたのか、だけを置いておくところです。

「嫌い」「運動」「不幸」「笑い」「日々」と5つの分類で気が向いたとき、
時間があるときだけ書き残します。

和泉が連続殺人事件などの凶悪犯罪を起こしたとき
「和泉野由が書き残した絶望手記の数々」と文藝春秋に書き叩かれるくらい
陰惨な内容となります。ご注意下さい。

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